昭和51年1月28日朝御理解第96節
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入力者・井出一憲
● 今朝からお夢を頂いたんですけれども、もう何かにつけてこうちぐはぐになって行くと言うようなお知らせでした。そん中にその歌舞伎芝居に、英彦山分限きわまろすけ「?」雨ダメを頂くんです。えー大体大変な剣術師ですけれども、意味合って山、山中で暮らしておる、ね、そして小倉の殿様に剣術指南として雇われる筈の所を、うーんまあ感心たけだと言うか、ある剣術師がその自分に勝ちを譲って呉れと言う訳です、自分にはこう言う年老いた親がおるからと、言ってその年よりの親を負んぶしてやって来るわけです。それであの自分が負けてやる訳ですね。所がその親と言うのは実際は親でもない、その親まあ「?」その年よりをまあ親に仕立てて、そのきわまろ助を言わば騙した訳です。ですからきわまろ助は、その剣術師のもう親とばっかり思うておるから、その功臣にまあ大いに感心してまあ負けてやる訳です。所が実際はそうではなかったと、まあそれからその次のだんに入ってうーんあの表に干してある子供の着物に目をつけて、あの女の虚無僧がやって参ります。それは実は自分の師匠の娘ですおその、
ね、それがそのまあ子供の着物をそこに干してあるからには、その子供の仇だろうと言うので、切ってかかるような所がありますけれども、それがそうでない事が分かったら、途端に自分はああたのその女房になるべき者だと、ね、その日はもう兎に角親でもない者が親であると言うてきたり、女房でもない者が途端に女房になったり、子供になったり今日はいよいよ持って可笑しい日だと言う所があります。本当に親でもない者を親と思わねばならない程に、うーん所が色々あったり、まあちぐはぐちぐはぐになって行きますけど、まあ結果に置いてはうーんそれが師匠の仇である事が分かったり、えー本懐が遂げられて同時に自分が小倉の師範剣術指南として、まあ召抱えられると言った結果になる訳ですけども、わたくしはその思いますのに、うーん今日のそう言うなかにちぐはぐちぐはぐ事を、感じたり見せて頂いたりしてその事を神様にお願いさせて頂いとりますたら、●うーん合楽の基礎作りと言う事を頂きます。合楽の基礎作り●これはえーまあ思うようになるとか、思うようにならないとか、
いや思い以上のおかげ頂く時こそ本当なおかげだと、言われておりますけどもその思い以上の言わばおかげを頂く為には、これはあの思うようにならんと言ったような事、今日の御理解で言うとうーん人の口には戸は立てられん先は知ってはおらんと、世の人が顔に関わるような事言うてもと言う事は、これは限りなくやはり憑いて廻るのだと言う事です。もう例えば合楽がこれでよいと言うならば、そりゃどんなにでも皆に誉めたたえられような生き方もあるでしょう、合楽は素晴らしい合楽の先生は中々、先生であるちある人が言うて下さる風にも、言われるようにもなれるでしょう。けども先は知っておらん人達が悪口を言われる。先日からもある教会の先生が手紙よこして来た、合楽の先生あなたは、合楽示現活動と言う事をさかんに言っておられるそうですが、合楽教会だけが発展すりゃいいのですか、と言ったようなひどい事を言って来る先生もある位です、内容もわからんでそうです。ね、ですからそれを皆に分からせようと言う事はとても至難です。だからそう言う時こそ言うならば合楽が、今日の合楽が、もうこれでよければそれでよい。けれども神様の願いは大きいし、又わたくしの願いも大きいのですから、
ね、例えばそう言う風に思うようにならない、又は人の口端にかかるような、ね、ある人は生神様のように言う人があるかと思うと、ある人は、ね、もうそれこそ義理も人情も知らん男だと言う人もある訳なんです。ね、けどもこれは恐らくは合楽のある限り、まあ繁盛して行くなら行く程に、そう言う反面がやはりあると思います。ね、そう言う意味であの金光教の信心は、あまりにもお上品に皆が例えば信心のない者でも、金光教の信心は素晴らしいげなと、又素晴らしいと分からんなり素晴らしいと言っておるような所にです、金光教の行き詰まりが出て来たんだと私は思いますね。だから、ね、助かっ本当に合楽を知った人達は有り難いであるのだけれども、知らない人達はやはり悪口ぐらい言われるような時でなからなければ、繁盛しとると言う事ではないと言う事。神様はねうらな、こんにちの合楽のご比礼をははー合楽は沢山人が集まって助かっておると、言ったような事を現在の合楽でもやはり全貌する人があります。
けどもまだまだこれは今は、ほんな合楽の基礎作りだと言う事です。ね、言うならば神様があたくし共の願いをあれも聞いてやりたい、これも聞いてやりたいと思し召しておられるけれども、あれもままになり、これもままにしてやりたいと言うその願いをです、聞かれずに、ならば、ね、いよいよ有難き勿体無き畏れ多きの三喜を、作らせて頂く為の元にしておられると言う事です。ね、ままになるおかげをつぶして三喜にすると、言うような御理解を昔頂いた事がります。そこでです、ならこれは皆さん一人一人の場合だっておんなし事です。ね、はあーあっちは金光様の信心しござるけ違うと、もうそりゃ本当に素晴らしいと言うて下さる人達もなからなければ出けません。かと言うと知りもしない人は、ああたが金光様の信心するばってんて言うて、悪口言う人もまたなからなければいけないです。なら陰口のひとつも言われるくらいなからなければ、わたくしは繁盛しないと思うです。
御理解百節に「目出た目出たの若松様よ、枝も栄える葉も茂ると言うではないか、金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのです。」いよいよ子孫繁盛家繁盛が、限りなくおかげを頂いて行く為には、いよいよあたくし共が、有難い事にならなければならないと言う事です。ね、言うならばどんなに悪口を言われても、どんなに邪魔をされても、それが心に掛からんぐらいな目出度い私共にならなければ行けないと言う事です。まああの男はチッタ目出度いと言うのは、まああん人はチッタ馬鹿じゃなかろうかと、言う場合に使います、ね、いよいよ大きくなる為には、いよいよ馬鹿とアホにならなければなりません。ね、知った人達は凄く金光様の信心は素晴らしいと言うて下さる方達もある。それこそ生神様のように言うて下さる方もある、かと言うと、ね、ほんの足元におる人達ですら、知らん人は、ね、まるきり合楽に合楽にと言うて参って来る人達を、本当馬鹿んごと言う人達がある、何んが何処がよかならあげん参らなんじゃろか朝はよからと、ね、足元の人ですら知らん者はそう言うのです。
だから知らん者が言うておるのですから、それにいちいち目くじら立てとったんでは、おかげになりません。イヤむしろ今こそ知者?が出来ておる時だ、今こそ、ね、ままになるおかげを言うならば、お米をままを貯めておいて沢山なお道になる、そう言う時だと分からせてもらわきゃ行けない。ね、今日はうーんある方の事をお願いさせて貰いよったら、薄ーい「?」あのパンをこう切ったやつに、蜂蜜をこうつけてから二三枚こう渡しておられるとこを頂いたんです。本人はどうでもままになりたい、ままになりたい腹一杯食べたいと言う訳なんですけれどもね、神様は腹一杯与えられずに、ほんのせんぺい並に?薄いパンを焼いて、そしてそれに甘い蜂蜜をつけてから、言わばおやつ的なおかげをやっておられると言う事だと私は思いました。うならこれ又段々大きく言うとです、合楽教会の場合もこれだけのおかげ、これだけのご比礼とあたくし共おもとりますけれども、神様の目からご覧になれば、ね、まあだ腹一杯じゃない言うならばそのパンの一切れか二切れ、しかも甘い蜂蜜つけて頂いているような事だと思います。だからこれ合楽教会の皆さんの一人一人の場合の方に思うて見てもよい。
願いは色々高度な願いも大きな願いも持っておる、それを聞き届けてやりたいのは山々なのだけれども、ね、それでは基礎ができん、思うようにならん時こそ本当な信心もでけて、真剣に信心もさして貰うのです。そこに信心の基礎が出来る。基礎が出来ると神様「?」打ちたてる物おかげを下さる。信心が出来ると又一段と大きな願いを持つようになる。ね、だから一段一段信心と言うものは高められて行くものです。だから高められて行く、いよいよ繁盛のおかげを頂く、所謂枝も栄える葉も茂ると言うような、繁盛を頂いて行く為にはです、いつも耐えずそう言う基礎作りの信心と言うか、または人に笑われたり悪口を言われたり、障害邪魔に、入られたりするような事が、必ずついて廻るんだ、もしついて廻り只よかよかばっかりである時には、もうあなたの信心は留まっとる時だ。もう繁盛はそれまでだと言う時だと言う事なんです。ね、だから適当に例えばおかげを神様下さってある、それはまだまだおやつ的なものであって、
ね、本当に願いが成就すると言う事は、その「?」が出来た時に始めて下さるんだと、うなら頂いた時には又あたくし共が、まあ「?」よくが出来ておる。より高い信心を頂きたいとこう思うよういなる、もっと素晴らしいお役に立ちたいと思う、そこには又今おんなじような事を繰り返さなければならないと言う事、学校でも小学校から中学高校大学と言うようにあるようなもんです、昨日金光教教徒新聞がまいりました、安武松太郎師甘木の教会の調査研究室と言う所から出ておるお話しが出ておりました。それにはまあ次々と先生自身も難儀な事にあっておられる訳ですけれども、信心の大学に入学してと言う見出しで、先生のご信心が語ってあります。お子さんが三男の方ですかね、三つの時か時にもういよいよ難しい時に、先生が神様の願うとります。まあせめて五つ六つまでぐらいまでお生かしを頂きますと、まあ言うならばあーせっかくこの世に出らせて頂いた、あーおかげのも味合う事が出来るのですから、と言うて願うておられる。そしてやっぱり六歳で亡くなっとられる。又その後にご長男が三十一歳で亡くなっておられます。ね、そん時に神さまからお夢を頂いておられる。大学に入学するのに、
難しい問題と優しい問題があるが、どちらを取るかと言う事であった。自分は学問もないからやさしい方取ろうと言うたら神様が、少しね早くおかげ頂きたいと思うなら、ね、難しい方取れと言われた。そのご長男が亡くなられた時に、ね、この言うならば問題が大学入学の問題であると思われた。それでどう言う答えを出そうかと、安武松太郎もこの事にはハタと困ったと書いてあります。恐らく実際は困っておりませんよね。キットあたしゃそう思います。あとかたの研究室の方達がそう言う風に言っているだけであります。ね、これが大学入試の言うなら問題だ、しかも難しゅう方を取れと仰るから難しゅう方を、取る気になったら、ご長男が亡くなられた。しかも31歳の言うならば血気盛りの方が亡くなられた。ね、その時にこれが大学入学の試験問題であろうが、果たしてどう言う答えを出すかと、言う事に安武松太郎ハタと行き詰まった困ったと言う訳。ね、あたし共日々信心をさせて頂く時に、様々な問題難儀と言う事に直面致しましょう、皆さんが小学生なら小学生に相応しい問題が出ます、
ね、中学生ならば中学生に相応しい問題が出ます。決して神様は教えとらん所の問題はだしゃしなさいませんです。一遍チャント教えておる所からしか問題は出ないです。そこでその問題いかんによってです、はあ自分な高校だな大学だな、最後に先生言っておられます、ね、大学を卒業しただけではつまらん、本当にそれから学士様にも博士にも、ならなければならんと言っておられます。ですから見事にそこん所の答えは出しておいて、られたには違いはないと思うのです。日常生活の上に起きて来る様々な問題、それはああた方が今勉強しておる、ね、程度の中から問題は出るのです。さあ困ったさあどうしようかと言うような事でも、もうそげん時にはこう言う答えを出すんだよと、言う事はチャンート習とるです。ね、それを言わば逆上せ上がってしまって、ね、頭にかんと来たーとかなんとかで、そのね、本当な答えは出さんなりに、落第ばっかりしとったんではいつまでも小学校は小学校、中学校は中学校、ね、はい高校所謂大学でも入学出けるような、おかげを頂かなならん。そこでです今日あたしが皆さんに聴いて頂い取りますように、現在合楽の今日のこの状態が、合楽のこれからの基礎作りだと言う事ですから、まだ全然形のおかげは現れてないと言う事。ね、して見るとまあだどう言ううなら、
今日の御理解で申しますと、本当に神様の比礼に関わるような事を、ね、人が言うたりしたりしておりますけど、そこん所が全然問題なっちゃならない、はあこりゃまあだいよいよおかげ頂くんだなと、言う風にお礼を申し上げるような心こそ、あたしゃ目出度い心だと思うです。ね、いよいよ子孫繁盛家繁盛のおかげ、いよいよ繁盛のおかげを願うならばです、あたしゃ決してあっちゃ素晴らしいばかりの、言わばそう言う定評があると言うような事では詰まらん。はあーこの頃からもあの熊本の富永先生が言っておられましたけども、あそこにたった一人の弟子が出来た。ね、それでえー日奈久教会が言うならもう、合楽教会の信心をもう本当に頂き抜いて、今日の御比礼を段々頂いておられる、だからたった一人の弟子だからその事も、言ってあるけれども中々その合楽の信心を頂こうとしない、ね、それにそのどう言う事がそうかと言うと、合楽は他所の信者を取るからもうそげな先生は好かんて言うたそうです。
そう言うだら事他所の教会の信者も沢山参って来る。ね、けれども本当にその人が助かる事さえ出来ればと言う、焦点を置いてのお取次ぎさして頂くならば、ははあんたどこん教会ならここに参って来なさらんがよかばい、実際に助けを求めてやって来るんだもの。それが助かるだからやはり参らずにおられない事になって来る、合楽がいよいよ大きくなって行く為には、そう言う人達も神様が使おうとしておられる、それをわたくしがうなら反対の事を言うとするならば、神様のご意志に反対する事になる、そう言う事は分からんで、ね、合楽はあげなこげなと言う、言うならば棒にも箸にも掛からんように悪口を言う人は言うけれど、それは実を言うたら、いよいよこれから合楽が大きくなる為のしるしだと言う訳であります。だからこちらとしてはそこを、目出度い心で受けて行かなければならないと言う事であります。
それでいて神様は適当におかげは、ね、それこそパンに蜂蜜を塗った程度のおかげはいつも下され続けてある。ひとつひとつが成就する。皆さん本当に一心にお縋りをしてお取次ぎを頂いて、しかもお願いさせて頂いておる事が、ね、思うようになるとか、ならないとかと言うのじゃなくて、ならない時にはいよいよ自分の信心の基礎が出けておるだと、思うて一生懸命信心なさらなきゃいけません。ね、そして神様から間違いのない、おかげも頂いていかなきゃなりません。けれどもそこにはやはり神様いつまでも、小学校だけではでけん、中学校行ったら高校にも大学にもやらせて下さろうとする働きが、必ずあるのですから、それこそハタと困るような事もありましょうけれども、いかにどう言う答えを出そうかと言う風に、思わなければいけんのです。ね、やはりチョット躊躇するような事もあります。ね、けれどもこれは信心しとるのに、どうしてこう言う事が起きただろうかと、言うような頂き方ではなくて、ね、ハタと例えば困っても、それがならこれにどう言う答えを出そうかと、言うユトリがなからまければいけんと言う事です。
そこには日頃習うておる事ですから、チャント答えは出てこんのです。でないと信心はいつまでたっても進展いたしません。ね、人が悪口を言うたり又は障害があったり、どうしてこんなにこのこう言う素晴らしい、昨日もうーん研修の後に、本当にこう言う素晴らしい、こりゃあたしだけが素晴らしい素晴らしい言うとると、あんたどんどげなふう「?」あたしゃ修行生のひとりひとりに聞きました。ね、昨日の金光教の信心が、合楽の場合、ね、金光大神の御教えを通して、この教典を通して天地金乃神様のいよいよ御心に触れて行く、お心を心として行く信心を身につけて行かなければならない。又合楽はそう言う生き方だと、ね、そこで始めて金光大神覚えを読み、金光大神の御伝記を読まして貰い、いよいよ持って合楽の信心が金光様教祖様の在り方生き方と、同なじような生き方をしておる事に改めて気がつく。とあたくしが言うたらあんたがたどう思うかと、親先生わがよかごつばっかり言いよるかと思うかと、
言う風な意味の事を質問いたしましたら、末永先生がその事に対して言うております。あたくし共が学院で色々な宗教の勉強をさせられます。そしてその専門専門の先生が教えられますのに、例えば仏教、禅なら禅と言う宗教はです、とてもとても金光教のまあだそれこそ、およびもつかない深さ広さを持っていると言われるそうです。ね、わたしに言わせるとです、その仏教であろうがキリスト教、お釈迦様じゃろうがキリスト様じゃろうが、まだまだ解きえてない所を金光大神は解いておられると、私は言っておる訳ですよ。だからそこん所あんたどんどう思うかと思うたら、昨日の御理解今日の御理解等を頂いておる、そこがハッキリ分かりますと言うております。ね、金光教の信者はまあだああ言う大きな宗教のしたら、まあだまあだ浅い狭い小さいものだと言う事。それがどう言う事かと言うと、金光大神の例えば在られ方とか、生きられ方と言っただけに、絞っておるからそう言う事になるのです。
もう金光大神が神様からおかげを受けられた、み教えを素にしてあたくし共が、信心を進めて行くならば、それこそどれだけ広いかどれだけ言うならば、限りない広さ深さを感じる、又わからして頂けるのが金光教です。だからこう言う素晴らしい事を本当に、全教のうなら言うなら先生方なら先生方信者に皆なにです、分からせたらこりゃどうしてわからんじゃろかと、あたし達が思い上がって「?」あんたどんどうですかと、なら内の修行生に聞きますとです、ね、親先生が言われる通りの事だと言う事を言いますけども、それをなら合楽の信心を知っておるからそう言えるのです。そう言う素晴らしい金光教が大きゅうならな、大きゅうならなて必死になっておるけれどもです、この大きい信心をまず自分が身につけない限りは、大きくなれないと言う事です。して見ると合楽はマチット研究しよう研究しようと言うような、人達が沢山出てこなければならんのだけれども、出て来ないと言う所にです言うならば神様の願いもあたくしの願いもです、ね、それを本当の事本当の事と分からせる為の基礎作りが今合楽ではあっておるんだ、だからまぁ言うならばあわてたちゃでけない、基礎が出来なければ駄目だと言う事になる訳です。
と言う程しにです、大きな言うならば神様の願いがかけられておるのだとあたくし共は思います。現在合楽の、ね、御比礼を只御比礼と言う事ではない、只まだまだ大きな御比礼を下さる事の為のまだ基礎作りであると言う事。それでこの位のおかげだと言う事なんです。ね、だからこの位のおかげにあたくし共が、例えばもうあぐらをかいたんではいけないと言う事が分かる、なら今度は皆さん方一人一人の信心の上においてもおなし事です。本当に新たかなおかげを頂いて有難いと言う、そのひとつふたつが成就した事を只有難いと言うて腰かけとっちゃったちゃ出けん。そこに自分の周辺を見てからです、はあまだ悪口言いよるとがおるなら、本当にそれを有難く思える位な信心にならにゃいけんと言う事。はああっちは金光様の信心しよるけん素晴らしかと、はあやっぱ紳士淑女のように言われたんではです、ね、
それはああたを知っておる人はそう言われなきゃ駄目です。あたしを本当に知っておる人がです、ね、あたしの悪口を言うような事であったら、こりゃやっぱいけません。ならここの信者さんがあたくしの悪口を言うようになったらもうお終いです。ね、けれどもあたくしは知らないここの信心は知らない人が悪口を言うのは、まあだいよいよ基礎作りの最中である、言うならば神様が顔を洗うて下さる時のおかげを思うたら、それこそお礼を申さなければならない。いよいよあたくし共は目出度いねと、おっしゃるがいよいよ目出度いあたくし共にならせて貰わなければならない。昨日の御理解の中に和賀心の和と言うのは、和らいだと言うだけでなく、壊れないと言う事だと、賀の心と言うのは賀正の賀、喜びの心陽気な心、ね、と頂きましたですね。言うならばあのおめでとう御座いますと言えれるような心を和賀心の賀だと言う事です。まあ昨日の御理解から引き続いてです、その賀の心とは言うならば、目出度いあたくし共になる事だと、言うならあの馬鹿とアホでと言う心こそ、
言うならば賀の心だと言う事がわかります。ね、まあ合楽教会を「?」して話を今日は聞いて頂きました。まあだ思うようにならん事はいっぱい、それでも願うとる事もいっぱい、それが成就しないと言うのは今こそ、ね、ままにおかげはやりたい、願い通りのおかげを下さろうと言う事は、神様から見れば分けない事だけども、それを貯めさせといて、ね、ご飯ならご飯ままになるままを貯めといて、これでモット素晴らしいお神酒を造ろう、造らせようとなさる働きを頂いて、しかもこれはあたし共がもう一生言うなら、合楽教会がある限りこう言う働きがなからなかったら、言うならば反面、ね、人の悪口を教会の悪口を又は教会長の悪口を言うような人が、なくなった時にはもう合楽教会はもうそれまでだと言う事だと、ね、ですからどうでもひとつ、悪口のひとつも言われれる位な、ね、例えば内の大将はもう金光様にばっかのぼせちからと言うて、その内々の者から悪口を言われるような事ではいけません。
そりゃまだ自分の精進が足りないからです。なる程大将の側におると、なんとはなしに、ね、例えば心配な事であっても心配ならん、暗い心の時でも心が明るうと言う位な中心にならなければなりません。ね、合楽教会にお参りをして来る、どう言う悩みを持っておってもここに入って来た途端に心が明るうなる、と、言うくらいな教会長をあたくしはいつも目指しております。ですから皆さんの家庭でもです、はあー内のお母さんが金光様ばっか参ってと言われるような事では、まだまだああたの信心修行は足りないんだと思うてね、それを知らない人達からの悪口は多いに歓迎です。しらんのだから、目出度い心でそこを受けさせて頂くと言う信心こそです、あたくしは今日は、えー96節と百節を引用させて頂いて聞いて頂きましたが、ね、恐らくは、ね、人の口には戸は立てられんと言われるような悪口はです、もう恐らく金光様の信心を頂いとる限り、続かなければいけない、今日はそう言う風な所を聞いて頂きました。どうぞ。